洩矢神社

この神社の御祭神

洩矢神

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洩矢神社(長野県岡谷市)

写真:Pat457 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

社格
村社
鎮座地
長野県岡谷市
御創建
不詳
例祭
10月20日(現在は10月第3日曜日)}} は、長野県岡谷市川岸東橋原区(旧橋原村)にある神社。旧社格は村社。 ==概要== 諏訪地方の伝承に登場する洩矢神を祭神としている。創建年代は不詳。現在天竜川から約200メートル離れた場所にあるが、本来は川のほとりに立っていたといわれている。 現在地の周辺には縄文時代にさかのぼる複数の遺跡が確認されている。当社の西南側にある経塚(経塚原)遺跡は一時洩矢神の住居跡と信じられていたようである。 ==祭神== *洩矢神 :旧橋原村の産土神。諏訪大社上社に務めてきた守矢氏の遠祖とも。 ==由緒== 地域に伝わる諏訪明神入諏伝承によると、先住の国津神の洩矢神が諏訪に進入しようとしていた建御名方神(諏訪明神)と対抗して争ったが、戦いに敗れて降服した。建御名方神に仕える者となり、諏訪大社上社の社家守矢氏の始祖となった。 中世に書かれた文献においては諏訪明神と洩矢神が争った場所を守屋山の麓(上社本宮周辺)とされているが、天竜川のほとりを両者の戦場とする異伝は江戸時代の伝承記録に見られる。現在は洩矢神社と三沢区にある藤島神社が二柱の神の陣地の跡と一般的に認識されている。 なお、当社は元々花岡村(現・岡谷市湊)に鎮座し、この村から橋原村に移住した花岡氏を伴って遷座されたという言い伝えもある。 ===天竜川の藤=== サムネイル|本殿を覆う[[覆堂|覆屋]] 言い伝えによると、洩矢社は元々は天竜川のほとりにあった。境内にある藤の木が対岸の藤島神社の藤の木と絡み合い、大きい橋に見えるほど繁茂していた。寛文年間(1661年~1673年)の頃、諏訪藩主は天竜川の蛍狩り遊覧のため藤を伐り払うように命じたが、人々は神の祟りを恐れて伐る者がいなかった。新屋敷の小石嘉右衛門という傲慢な人が山役の料(蔵米三升)二人分を条件に藤を伐採したところ、間もなく気がおかしくなってしまった。京都の吉田家に祈祷してもらい少し収まったが、ある日、祈祷の札を頭にのせて家を飛び出し、「半の木」という山腰(現・岡谷市半ノ木か)で突然倒れて死んだ。神罰を恐れた人々はその場所に神札を祀って「鎮目大明神」と名づけた。 命令を下した藩主にも祟りがあったため、お詫びに城内で祠を作らせて奉納することにしたが、あまりにも大きすぎて大手門を出ることができなかった。やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の本殿であるといわれている。この際に当社を現在地へ遷座し、藩主が神事免を寄付した。それ以降は当社が諏訪藩主に篤く崇敬され、明治維新期の廃藩置県まで例祭は藩主によって行われた、現在は10月第3日曜日 *岡谷市の名所・旧跡 *岡谷市の歴史 ==脚注== {{Reflist|2|refs=
別名
守矢大明神、守屋大明神、洩矢大神、洩矢社

洩矢神社について

洩矢神社長野県岡谷市に鎮座する神社です。御祭神は洩矢神です。社格は村社。創建は不詳と伝えられています。例祭は10月20日(現在は10月第3日曜日)}} は、長野県岡谷市川岸東橋原区(旧橋原村)にある神社。旧社格は村社。 ==概要== 諏訪地方の伝承に登場する洩矢神を祭神としている。創建年代は不詳。現在天竜川から約200メートル離れた場所にあるが、本来は川のほとりに立っていたといわれている。 現在地の周辺には縄文時代にさかのぼる複数の遺跡が確認されている。当社の西南側にある経塚(経塚原)遺跡は一時洩矢神の住居跡と信じられていたようである。 ==祭神== *洩矢神 :旧橋原村の産土神。諏訪大社上社に務めてきた守矢氏の遠祖とも。 ==由緒== 地域に伝わる諏訪明神入諏伝承によると、先住の国津神の洩矢神が諏訪に進入しようとしていた建御名方神(諏訪明神)と対抗して争ったが、戦いに敗れて降服した。建御名方神に仕える者となり、諏訪大社上社の社家守矢氏の始祖となった。 中世に書かれた文献においては諏訪明神と洩矢神が争った場所を守屋山の麓(上社本宮周辺)とされているが、天竜川のほとりを両者の戦場とする異伝は江戸時代の伝承記録に見られる。現在は洩矢神社と三沢区にある藤島神社が二柱の神の陣地の跡と一般的に認識されている。 なお、当社は元々花岡村(現・岡谷市湊)に鎮座し、この村から橋原村に移住した花岡氏を伴って遷座されたという言い伝えもある。 ===天竜川の藤=== サムネイル|本殿を覆う[[覆堂|覆屋]] 言い伝えによると、洩矢社は元々は天竜川のほとりにあった。境内にある藤の木が対岸の藤島神社の藤の木と絡み合い、大きい橋に見えるほど繁茂していた。寛文年間(1661年~1673年)の頃、諏訪藩主は天竜川の蛍狩り遊覧のため藤を伐り払うように命じたが、人々は神の祟りを恐れて伐る者がいなかった。新屋敷の小石嘉右衛門という傲慢な人が山役の料(蔵米三升)二人分を条件に藤を伐採したところ、間もなく気がおかしくなってしまった。京都の吉田家に祈祷してもらい少し収まったが、ある日、祈祷の札を頭にのせて家を飛び出し、「半の木」という山腰(現・岡谷市半ノ木か)で突然倒れて死んだ。神罰を恐れた人々はその場所に神札を祀って「鎮目大明神」と名づけた。 命令を下した藩主にも祟りがあったため、お詫びに城内で祠を作らせて奉納することにしたが、あまりにも大きすぎて大手門を出ることができなかった。やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の本殿であるといわれている。この際に当社を現在地へ遷座し、藩主が神事免を寄付した。それ以降は当社が諏訪藩主に篤く崇敬され、明治維新期の廃藩置県まで例祭は藩主によって行われた、現在は10月第3日曜日 *岡谷市の名所・旧跡 *岡谷市の歴史 ==脚注== {{Reflist|2|refs=に行われます。

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